瀧口 あさひ
マイナスイオンや血液型性格診断、最近流行りの水素水など、疑似科学は身の回りに溢れている。疑似科学に根拠はないにも関わらず、ビジネスとして成立し、儲かっている企業が存在している。つまり、疑似科学が主張することを信じる人が多数存在しているのだろう。
なぜ疑似科学はこれほどまでに流布しているのだろうか。それは消費者が「科学的」に考えて判断していないからだろう。しかし、ここでいう「科学的」な判断の根拠も安定しているわけではない。同じ分野の研究者でもある現象に対する意見が分かれることは日常茶飯事であり、互いに異なる意見が重なる部分をかろうじて「科学的根拠」と呼んでいるのだ。
物事の仕組みや成り立ちを説明する手段として、近世までは宗教が支配的だった。特にキリスト教圏では、初期の科学も教義の正しさを補強する役割を担った。しかし、科学が発展するにつれ、科学の成果と教義との矛盾があらわになり、宗教の影響が薄い近代科学が成立したのだ。このように、ある出来事を説明するのに最も有効な手段は歴史の中で移り変わっている。
そして、今も科学で説明できない事柄は多く残されている。宇宙の果ての向こう側や、生きているということ等、あげればきりがない。かつて宗教から科学に、ある出来事を説明するのに最も有効な手段が変化したように、数百年後には科学から別のものに変化しているかもしれない。
では、科学にも限界があり絶対的に正しいとは言えないのならば、どうすればいいのだろう。私たちに必要なのは、科学そのものよりも、科学を通して思考法を身につけることだと思う。ここでいう思考法とは、物事を鵜吞みにせずに論理的に判断するプロセスである。そうすれば疑似科学のおかしさにも気がつくようになり、科学の時代でなくなったとしても新しい時代に適応できるようになるだろう。大事なのは、常に自分の頭で考えて判断することである。